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日本人の“掃除”こそ、世界に誇れる文化!? リサーチャーとして見つめる、まちの新しいかお。【前編】


「この中から好きな一枚を選んでみて。 そしたら、選んだカードと一緒に、あなたの写真を撮らせてほしいの」

そう言って、茶目っ気たっぷりに笑うスー・マークと再び会ったのは、 金沢21世紀で開催された「トレース、そして発見」プレゼンテーションから、数日後のとある日のこと。

ランプに、車のミラー、草花、オブジェなどなど・・・。 ポストカードのようでいて、ただのスナップにも見える写真たちを、私の前に並べていくスー。 「これはなに?」と口を開こうとした私に気付き、彼女はにっこり笑ってこう言った。


スー:

「これは、全部私たちの家の写真なの。家からどんなに遠く離れた場所にいたって、 これを持っていればいつでも我が家のことを思い出せるでしょ。それに、何より初めて会った人にも私たちのことをより知ってもらうことができる。そういう意味でも、これは私たちにとって大事なコミュニケーションツールなの」



アメリカのカリフォルニア州・オークランドを拠点に活動する、マークサーチ


言語学や哲学に明るく、マークサーチの企画や運営担当の“スー・マーク”と、 代替エネルギーや機械設計のエンジニアで、マークサーチのメカ担当でもあるブルース・ダグラス。 二人は公私にわたるパートナーであり、“芸術”というカテゴリで活動しているチームでもある。


そんな二人は、いま息子のローリーとともに来日し、金沢市の桜町にある山鬼文庫に滞在中。 「パパ、早く散歩行こうよ」とせがむローリーに、準備しながら「OK、ちょっと待って」 と答えるブルース。 そんな父と息子のひとコマをみて、嬉しそうに笑うスー。まだ金沢に滞在して日も浅いはずなのに、なんだかもう、この場にしっくりと馴染んでいる様子が、ほほえましい。 と同時に、普段の3人の日常を垣間見た気がして、今私がいる純和風の建物の中が、 日本なのかアメリカなのか、金沢なのかオークランドなのか、一瞬わからなくなってしまった。




誰だって、アートを受け入れるキャパシティがある。



去る6月15日に行われた、先述の「トレース、そして発見」プレゼンテーションは、 ブルースとスーが過去の活動事例やプロジェクトの背景について語り、金沢での滞在制作にともなう展望を共有するという、とても貴重な場になった。 しかしそれは、ひるがえって、「これから2ヶ月間、私たちはこのまちに滞在します」という彼らのステイトメントの場であった、とも言えるわけだ。


スー: 私たちは、どんなプロジェクトを行うにもまず、1ヶ所になるべく長く滞在して、 近所の住人の方たちと何回も顔を合わせて、互いに信頼関係を築いていくようにしているの。 その中で、まちに関わる活動があったら、そこに参加して関わりを広げていく。 そうすることで、コミュニティが望んでいる正直な想いを知り、自分たちの活動に結び付けていくことが、私たちの活動でなにより大事にしているポイントなのよ


だからだろうか、過去のプロジェクトを振り返ってみても、 彼らがまちの人たちとコミュニケーションを図る手法は、どれをとっても興味深いものばかり。


例えば、二人乗りの自転車にどでかいMAPを掲げてオークランドのまちを走り回る「WE Riders」や、公園活性化のために、掃除道具を載せたワゴンとガーデナーのような恰好でまちに出る「10,000 Steps」など。何者かに扮装したマークサーチが、移動しながらまちの人たちに質問を投げかけていくというスタイルは、なんともユニークさが光るアイデアだ。しかし、それはもちろん奇をてらうことが目的なのではなく、人種や年齢に関係なく、いかにいろんな人に興味を持ってもらえるか。そこに、尽きる。



スー: 子どもの時って、自分の思ったことを表現したり、歌ったりダンスしたり、日常的にアーティスティックですごく自由だったでしょ(笑)。でも年を重ねるうちに、みんな真面目に深刻になっちゃって、“アートは遊びだ”というふうに分けてしまうのね。だから、いつの間にか“アート”と“実際の社会生活”は、切り離された世界になってしまうわけ。でも私たちは、アートとは何かを学ぶための手段であり、何かを表現できる手段だと思ってるの。だとしたら、アートと日常生活、あるいはアーティストと一般の人という分け方なんて存在しないはずで、どんな人もアートを受け入れるキャパシティがあるのよ。


アートは、何かを学ぶための手段であり、表現する手段である。そしてそれは特別なことではない、と。 そう言い切るマークサーチだからこそ、実は彼ら、自分たちのことを“アーティスト”と呼んでいない。 もっと言えば、まちの人たちが彼らのことを“アーティスト”だと見てくれなくても構わない、ともいうのだ。


スー: 外に出て人と話をするときや作品をつくるとき、「あなたたちは何やってる人なの?」って、聞かれることが多いんだけど、国から助成を受けているとか、どんな作品をつくってきたとか、そうやってラベリングをすることって、あんまり重要じゃないと思ってるの。それよりも、私たちにとって一番大切なことは、人とフラットに会話をすること。お互いのストーリーを紐解いて、それをみんなで一緒にシェアしたり与え合ったりする体験を、いろんな人たちと共有したい。そこにあるのよ。そしてそれは、ゆっくりと時間をかけないと、決して生まれてこない体験でしょ?



“会話”こそが、人とまちをつなげるキーワード。



作品をつくること、完成すること、商業ベースの経済活動に乗せるということ。 あるいは、ゲリラ的な活動であるということや、美術館以外の場所で展示するものであるということ。 多くのアーティストが直面する、“自らの表現と社会との接点として何を選ぶのか”というフォーマットが、アートを前提とするならば、マークサーチの活動は、そのいずれとも少し違う立ち位置をとる。


なぜなら、アートを意識した表現をベースに、なにかしらの完成を目指すことがゴールではないから。


人と人が互いに関わり合っていくことで、“個人”という存在から、“まちに住む一人ひとり”として、 それぞれのストーリーとまちの歴史が絡み合っていく。 結果、その土地だからこそ根付く公共性と、新しく生まれ得る絆を掘り起こしていくことが、 彼らの活動の根本にあるのだ。



スー: 例えば、何かの縁で今日初めて私たちと会って、会話を交わした人がいたとする。 その人が日常生活に戻ったときに、「今日こんな面白いことがあったんだよね」とか、「すごい変わった人たちと話したんだよね」というように、 他者から他者へとつながっていく行動のプロセスを描くことが、私たちの活動の核になるの。


ブルースと私を例にとってみてもわかると思うんだけど、どんな人でも皆、それぞれ違うバックグラウンドを持ちながら、“一人の人間”として、社会と関わって暮らしているでしょ?


だから、私たちはアーティストという名称にこだわったり、縛られたりするんじゃなくて、自分たちを含めて、いろんな人たちがそれぞれのストーリーをシェアできるプラットフォームをつくるための “リサーチャー”として、人と社会をつなげていきたいと思っているの。



→後編につづく



取材・文/喜多舞衣(オノマトペ)